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teepeeのニッッキ

ただ毎日、暮らしています。その日記。備忘録。思ったこと。

働くことがイヤな私

感じたこと 考えたこと 読書

仕事を辞めたい。

もし高校生に戻れるなら、今の職業を選ばない。

 

仕事に自己実現を求めていた。社会的な評価を得られるような人間になって、同級生に認められたい。

声には出さないけど、自分でもそんな下世話な欲求は認めたくなかったけど、心の中ではそう考えていた。

いろんなことを考えて結局何もできなかった。そして、成り行きで今の仕事に就いた。

そいで今の現実。

「仕事は余暇のためにある。必要なお金のためだけに働くのだ」

「仕事に振り回されない。自分の人生を生きる」

そんな風に、自分に言い聞かせて、毎日を乗り切る。

 

『働くことがイヤな人のための本』を読んだ。

(以下は自分に引き寄せた解釈であり、著者の主張と異なることがあります)

 

仕事がうまくいかない、世間に馴染めない人ほど、「仕事がうまくいかないのは自分が傷つきやすく繊細でナイーブだからであり、仕事で出世するやつらは鈍感で純粋さのないずるいやつだ」と考えがちである。

俺もそうやって自己正当化しようとするし、世間の競争には乗っからないよーという態度をとって自己保身に一所懸命。その実、負けるのが怖い。それ以上に人に負けたと思われるのが怖い。

そして純粋なことが尊いことだと、勝手に思い込んでる。でも、純粋であること、そのことはよくも悪くもない。

〜だから仕事がうまくいかないなんてのは何を言ったって、言い訳に過ぎない。

 

しかし、成功するも失敗するも(努力とかもあろうが結局は)運に左右される。そして、どんなに成功したとしても、結局は死んでしまう。人生にはそういう不条理が最初からある。

働くということはむなしい営みである。

そして、生きるということもむなしい営みである。

 

世間の評価や一時の仕事の成果がそこで何になろう。そういったもので、自己満足は得られるかもしれない。自己満足こそが幸福である。しかし、それは人生の不条理=人生の真実から目を背けた生き方ではないのか。

 

人生の真実を見つめる、探求する行き方こそ、「よく生きる」といことである。この生き方にあっては、人生そのものを生きることにこそ最大の価値がある。そのために、あらゆることがあり、あらゆることが営まれる(それは食事とかの日々の営みから、仕事もそう)。

仕事も「よく生きる」ための手段であり、道具である。それは、例えば、(生活費を稼ぐということより)仕事に悩み、失敗し、つまずくことで、「なんでこんなことして生きるのか」と考えること。

 

「余暇のため仕事」と「よく生きるための仕事」。仕事の優先順位を1番に置かないということは一緒だけど、「余暇のために生きる」というのも人生の真実から目を背けた生き方になるだろう。

「よく生きる」というのは、ある人にとっては必然的な生き方であり、そういう風にしか生きられないというものなのだろうと思う。

俺にとってはどうか。

俺は「自己満足でもいいから、何かに熱中して納得できることをしたい。それも世間から認められるようなことであればいい」という俗っぽい考えかたは捨てきれないし、なんかそういうのが本能のように体に染み付いちゃっている。

そして、そんな自己満足さえできそうもないから、悩みながら生きるしかないなーといところである。それは「よく生きる」ということだろうか。

 

とりあえず今の仕事は辛い。

じゃあ、やめて何すればいい?

したいこともないし、別の仕事(今より辛くない)で生きて行ければいい。

そういう甘い考えは変わらずにもっている。

 

 

 

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)